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北九州国際ビエンナーレ'07

その2−情報操作をはぎとり、物事の現実のほんとうの姿を知ろうとすること

TEXT 中村千恵  


実行委員会主催の、地元の商店街の方向けの説明会@商店街の通路


外部の団体(九州大学芸術工学部)主催の公開講座「ART OPEN CAFE 2007」にてビエンナーレディレクター宮川氏のトーク@商業施設(IMS)内の会議室 (画像提供)九州大学芸術工学部

VJ.motordrive氏主催のワークショップにて宮川氏による宣伝トーク@APPLESTORE福岡天神(c)Kitakyushu Biennial'07


ボランティアの仕事である受付や監視などをしていて感じた印象は、現代美術の展覧会にしては来場者に年配の方が多いことと、不満を示されて帰る方が多いことだった。それでもそのあと、これをきっかけに何か考えたりすることにつながって何かしらその人にとって得るものがあれば良いだろうけど、「交通のための時間をかけて入場料も500円かかったのに、作品は意味わからないしマニュアル的な対応で嫌な思いしかしなかった」とむかついた印象だけでそのまま記憶が薄れていくとしたら、ボランティアという形で関わった身としては、辛い。
また、来場者と直接コミュニケーションをとれて反応を示しあえるところがボランティアの魅力の大きな要素と思っていた私には、このマニュアル的な監視・受付の仕事はバイトを雇うべき内容だと思え、そうした姿勢をとることの理由さえ知らされずにマニュアル的に対応しなければならないこと、そうしたバイトを雇うべきマニュアル仕事のために時間を割くことも辛かった。

監視で会場内をまわっていると「何が何やらさっぱりわからない」と不満を口にする方が必ずいらしたが、それに対して「担当の者から説明いたしましょうか」としか言ってはいけなかった。現代美術に初めて触れるような人は、例えば具体的に「ジョン・ミラーの鏡の迷路の中にフルーツが置かれている作品で、迷路の中のどこにいても必ずフルーツが見えるのは意図的ですか?」などと聴いたりするなら”担当の者”も答えてくれるだろうけど、「これが何を言いたくてどのように美術作品なのか」といったさっぱり派の質問に対して”担当の者”が「例えばこういうふうに見ることもできる」といったことを示すわけでもない。
自分なりに、見て、考えれば良いことだけど、「美しいものをぼうっと眺める」という”美術”のイメージでいては、自分なりに見ていいんだ、というところにたどり着かない。それを、例えばこういう見方があるよね、と提案することで「自分なりに見ていいんだ」と思わせるのがアウトリーチであり、作品や作家の背景についての情報提供だと思うが、それを拒否する姿勢が強くうかがえる展覧会体制であった。新聞に取り上げられたりまちなかにポスター掲示していたりするので、普段美術表現に触れる機会を持たない人が来る可能性は多分にあったにも関わらず。

作家が作品以外で情報を発する機会は、あったとすれば初日のオープニングパーティのみであった。オープニングパーティは会費を払えば誰でも参加できるオープンなものであり作家と直接話せる唯一の機会ではあったが、時間的に参加できる人は限られるため、作家と直接コミュニケーションをとってこそ鑑賞が成り立つというものではなさそうだ。しかしながら、webで、小さなフォントサイズで打たれた作家名をクリックして初めて作家のこれまでの活動がチラシよりは少し詳しく載っている程度である。普及しているとは言えPCを備えネットを日常的に使用する環境は、全ての人が持っているわけではない。世代や仕事のジャンルなどによりかなり偏りもあり、このwebをチェックできるのは限られた人と言えるのでこれも、チェックできることを前提に、という姿勢とは思われない。となれば作品自体以外では会場で得られる情報が鑑賞のため用意された全てと言って良いと思うが、その内容はというと、作品タイトルと作家名のみである。展覧会の本もあるけれど3000円で安い金額ではないのと、来場者が少なく立ち止まると受付に目立ってしまうためか立ち読みしていく人も少なかったので、すべての鑑賞者にひらかれたツールとは言い難い。

この意図的な情報の少なさは特徴的なことで、アウトリーチにつとめワークショップ等やガイドツアー等を企画する展覧会が多いなか異色と言えるだろう。言い方を変えてみれば、公の声を聴くべき存在である行政主導の展覧会の、その姿勢に対するアンチテーゼである。
でも、門司港に来ているからと言って門司港を知っているかと言うと、知らない人のほうが多いだろうに、門司港の位置づけという前提を言わずに、その前提にのっとった作品を見せられても、いまいち届かないように思う。
以前小倉に4年間住んでいたわたしは地元から友達が来るたびに門司港に観光に行ってたし、車を持っている友達に夜景を見に連れて行ってもらったりして門司港は何度か訪れていたけど、二次大戦時の門司港の位置づけや役割なんて知らなかった。かなり情報が制限された展覧会ではあったけど、事前に開催された地元の方向けの極小規模の説明会の他、他団体が主催する大学の公開講座のゲストとして宮川氏が招かれたときの話や福岡のアップルストアでのプレゼンテーション、そしてこのビエンナーレでの映画の上映作品の内容、シンポジウムの内容などからようやく、門司港の戦中〜戦後の歴史的な位置づけを知った。

フェデリコ・バロネッロ+古郷卓司「ランペドゥーサ島に辿り着くには」(C)鶴留一彦

 
フェデリコ・バロネッロ+古郷卓司の「ランペドゥーサ島に辿り着くには」では、観光という収益のあがる分野でランペドゥーサ島が自ら喧伝するリゾート地としてのイメージと、逃れてくる多くの難民たちの姿の、現実のギャップを感じさせた。儲けるためのイメージ作りと、わたしたちがその作られたイメージしかその土地の情報として知らないこと、そのためほんとうの現実を知る機会が極端に少ないこと、またそのイメージの、受けてに対する不誠実さ、といったことを思わされるが、それはまさに今鑑賞者がいるその場所、門司港の観光イメージについても言えること。
 

ショーン・スナイダー「スキーム」(C)鶴留一彦

 
ショーン・スナイダーの「スキーム」ではニュースの始まりの時刻を知らせる映像や、天気のニュース、そしてクイズ番組などのいくつもの短い映像がつなぎあわされる。どこも似たような印象で、生活の中で身近に目にするイメージが、世界中どこでも均質に近いものであることを目の当たりにするのは、安心する?気持ち悪い?人が魅力を感じてお金を出す先述の「作られたイメージ」は、バリエーションにも限りがある。作られたイメージに沿って現実を作り直していくと、たどり着くのはこれらのニュース番組のように、世界中どこに行ってもどこかで見たような似たようなイメージの景色になっていくのかもしれない。それって魅力的なことではないし、その魅力的ではないグローバリゼーションのために土地の固有性が失われていくことでもある。


宮川敬一+古郷卓司によるプロジェクト/キャンペーン&プロダクツ(C)鶴留一彦

 
宮川敬一+古郷卓司によるプロジェクト/キャンペーン&プロダクツからの無題の作品は「PHOTO TOTO株式会社 広告素材より」と会場図に添えられている通り、ピカピカのトイレの便器の画像が使われているが、文字も言葉も音もなくただひたすらその清潔で冷たい印象の映像が繰り返される。このひんやりしたイメージはまるで、魅力的に見えるように情報操作する前の写真のほんとうの姿のように見える。


左)ジョン・ミラー「永遠の悪臭の沼地」(C)鶴留一彦
右)フェデリコ・バロネッロ+古郷卓司「リブリーノ都市計画」(C)鶴留一彦

 
ポスター・チラシにもなっているジョン・ミラーの「永遠の悪臭の沼地」は、見た目可愛くおいしそうなフルーツの固まりがひとつ鏡の迷路の中にあって、入り口からも、どこにいてもフルーツは見えて、辿り着くと鏡に囲まれたフルーツが鏡に永遠に反復されているインスタレーション。鼻を近づければ、本物のフルーツじゃないことはわかる。鏡に映ったフルーツを、マスメディアに広告されるイメージのようなものとしたらその映し出されていた実物は同じコピーがいくらでも存在するいつまでも腐ることのない石油製品で、本物なんかどこにもありはしないイメージだけが魅力的に見えるように世の中にあふれている、そんな作品だったように思う。それは都市についても言えることであり、門司港のレトロ地区やこのようなテーマパーク的な観光都市の比喩のようにも思われる。
フェデリコ・バロネッロ+古郷卓司の「リブリーノ都市計画」は巨額を投じられ計画されたひとつの街が予算の都合で計画を中断させられたことに取材した作品で、計画とは正反対であろう、治安も衛生的にも最悪な状態になってしまった街で生活する人がその暮しぶりを吐露している。質量を持たない理想のイメージに対する、人ひとりひとりの現実の毎日の生活や人生という重みが描かれていた。


*CANDY FACTORY PROJECTS(from コラボレイティブ・リサーチ with ショーン・スナイダー)「沖縄・岩国」(C)鶴留一彦

 
*CANDY FACTORY PROJECTS(from コラボレイティブ・リサーチ with ショーン・スナイダー)の「沖縄・岩国」でどぎつく印象に残ったのは、水色の目に星の入った金髪のマネキンの、荒んでしまった姿。この作品だけは壁面にA4サイズの紙が貼られており、沖縄と岩国というのが米軍基地のある町ということで選ばれていることがわかる。ゴーストタウンのような雰囲気の映像に、元から命はないはずのマネキンの乾燥して死んだような目に、過ぎ去ってしまった、美しく見えたであろう、新しい文化の流入に夢があふれていたであろう時代を想像する。魅力的に見せようと誰かが演出してくれるわけでもない人を象った物体は、演出されていないほんとうの現実を垣間見せられるようでもあり、踏みつぶされて粉々になる前の紅葉した落ち葉のような、夢や憧れの残り香のような枯れた美しさも感じさせる。

 
会場である建物の扱いを含め、情報操作をはぎとって物の本当の姿を見せようとする展示であり、それは美術は社会の中でどういう存在であるべきかという問いへの彼らの見解の表明だったと言えるだろう。
それは民間主導だからこそ実現できた価値ある試みだったと思うが、先述した通り、門司港自体の位置づけを知らないために何故この土地でこの作品だったのか、という点が伝わらなかったり、素っ気なさに不快感を感じられて深く鑑賞しようと踏み込む前に拒絶されるような印象を与えたことは、もったいなかったと思う。鑑賞に解説などを加えないことや、展示に関してアーティストトークなどが皆無だったことはその姿勢からくるものであろうが、見る側もボランティアする側もいろんな人がいるから、いろんな対応があって良かったと思うし、そのためには基本方針を伝える機会も必要だったのではと思う。

ビエンナーレということで、この1回だけの展示で考えるのではなく、地域との連携などが育っていくような、今後を見据えた上でのぶっきらぼうさだったのなら、次回どのように変化するのか、興味深く見守りたい。(このビエンナーレでボランティアするのはもう遠慮しておくつもりだけど。)

 

著者プロフィールや、近況など。

中村千恵(なかむらちえ)

'79愛知県豊田市生まれ。
'98北九州市→'02再び豊田市→'05渋谷区→'06.3末より福岡市在住。
比較文化学科で学んだ後、社会人を経て'06.3美学校アートプロジェクトラボ修了。




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