topreviews[Chika Ecoda 第2回展示企画 鞍掛純一「かたちを生む方法」/東京]
Chika Ecoda 第2回展示企画 鞍掛純一「かたちを生む方法」


彫刻の誤読
TEXT 藤田千彩

ここ数年、彫刻といえば「立ってある人体像」か「置いてある日用品」か、だった。
それは現代美術のギャラリーだろうが、いまは元気のない銀座の画廊だろうが、美術館であろうが、どこも同じような「デキゴト」だった。
だから先日見に行った建畠覚造展を見たとき、妙な新鮮さを感じた。
目に見えて「人」とか「物」とか理解できるのではなく、丸や四角が組み合わさって「〜みたいなもの」という彫刻だったからだ。
もちろん存在することは理解しているはずだが、日ごろ見かけない種類のものを改めて目にすることで、新鮮さを感じたのだ。

今回見た鞍掛純一の作品も同様に、「これまでの歴史の中であっただろうけど、ここ数年の間では私は見たことがない」作品だった。
なぜそう思ったのか、分析をしてみたい。


《森のトルソ08-4》2008 鉄


1.素材について


最近目にする「立ってある人体像」は、木かFRPのどちらかでつくられている。
作家の取扱説明書のようなステイトメントや作品を扱うギャラリストのコメントを読んでいると、木の作家は「日本古来からつかわれてきた」と言い、FRPの作家は「現代社会を象徴する素材」と言う。
鞍掛が用いる素材は「鉄」である。
鉄を削ったり、磨いたりすることで、望む大きさ(サイズ)や厚み(薄さ)にしていく。
キャンバスに絵具を乗せたり(盛ったり)、伸ばしていくような感覚で、表面をつくっていくのかもしれない。
そして「鉄を鉄ではないように見せたい」というように、アルミや銅のような輝きを放っていた。
素材は「表現のためのいいわけ」ではなく、あくまで「表現そのもの」であることを教えてくれている気がするのだ。


2.大きさについて


(手前)《森のトルソ08-2》2008 鉄、木 (奥)《森のトルソ08-1》2008 鉄、木

ギャラリースペースで見たせいか、見上げる大きさ(サイズ)のものはなかった。
しかし家に置くには大きいし、公園では小さいかもしれない。
鞍掛は自らに制約を課したサイズをもとにして、制作するそうだ。
たとえば《森のトルソ08-1》や《森のトルソ08-2》は、大人がひとり、腰掛けられる高さや大きさの作品である。
制作の途中で鞍掛自身、座ることができることを確認しながらつくったそうだ。
一見中途半端な大きさかもしれないが、現実的に、つまり作家が必要と感じる、その気持ちで大きさを決めて行くという自由さ。
最近の作品は「大きいものは美術館、小さいものはギャラリーや売るために」という見せ方、制作しか意識していない作家に、私は教えてあげたくなった。

3.かたちについて


《森のうたIV》2010 鉄

《森のトルソX》2008 鉄、木

人や動物を模した作品があふれる昨今、作品のかたちを「うさぎ『みたい』」ではなく「うさぎ」と言い切ることは何ら恥ずかしくない。
むしろ鞍掛の作品のかたちは「曲線『のような』」とか「山『みたいな形』の」とあいまいになってしまうし、その言葉は発する人も受け取る人にも不安を感じさせてしまう。
特に私みたいな仕事をしていると、プレスリリースに書いてある「うさぎ」という言葉を見て「うさぎ」と書かないといけないし、実際展覧会を見に行ってそれが「うさぎのフェイクファー」だとしても、「うさぎの形をしたはりぼて」であっても。「うさぎ」だと言わなくてはならない。
そのくらい嘘やごまかしをしても、「表現された作品」を「確定された言葉」で制約していることが普通なのだ。
なぜなら作品や作家の価値をつけることだと思われているから、マーケット中心の現状では「うさぎ」と言わないと理解されず、売ることができないからである。
そうなると鞍掛の作品は、どこの誰に、どう伝えたらいいのだろうか、そして、どこの誰が、どう理解してくれるのだろうか。

4.結論


展示風景

鞍掛の作品を「これまでの歴史の中であっただろうけど、ここ数年の間では私は見たことがない」と感じたのは、あまりにいま目にする彫刻作品が「理解しやすいもの」であり「売りもの」であったか、という反省からである。
美術自体が「理解しやすい」あるいは「売る」というものでならば、鞍掛のような作品はやはりどこの場所でも目にすることはできないだろう。
今回私が見たのは、Chika Ecodaという、鞍掛が勤める日本大学芸術学部にある学内ギャラリーだ。
つまり、作家にとってはなじみがあるという意味での「中」であり、決して他人が足を運ぶ場という意味での「外」ではない。
2011年6月現在で「外」に出るためには、クリアする条件、つまり世の中と妥協する条件がいくつも必要なのだ。
それが「理解しやすい」であり「売る」ということである。
ただよく考えてほしい。
その条件をクリアして「外」に出ている作品、つまり「立ってある人体像」や「置いてある日用品」が「彫刻作品」と呼べるものなのか。
胸を張って、私は「違う」とイエローカードを掲げたい。

Chika Ecoda 第2回展示企画 鞍掛純一「かたちを生む方法」
2011年5月30日〜6月11日

Chika Ecoda(東京都練馬区)

 
著者のプロフィールや、近況など。

藤田千彩(ふじたちさい)

1974年岡山県生まれ、東京在住。アート+文章書き。
仕事ください! メール chisaichan@hotmail.com




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