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「写真新世紀 大阪展2011」/クロダミサト「家族の風景」/澄毅「光」


写真が写す「リアル」、写された虚構の中にある「リアル」
TEXT 高嶋慈

キャノンが主催する若手写真家の公募展、「写真新世紀」(2010年度)の大阪展が、アートコートギャラリーで開催された。消費都市の一画に生きる女性たちの「いま」を切り取ったポートレート、生命の強さや美しさをストレートに提示する写真がある一方で、複写や加工といった操作によって逆説的に「リアリティ」の在りかを浮かび上がらせる写真が出品されるなど、写真というメディアのあり方について改めて考えさせられる機会となった。以下では、グランプリを受賞した佐藤華連、優秀賞を受賞した柴田寿美、谷口育美、齋藤陽道、高木考一の作品に加え、同時期に開催された二つの個展―昨年度グランプリ受賞のクロダミサトの個展「家族の風景」、及び佳作受賞の澄毅の個展「光」(Port Gallery Tにて開催)についても、クロスする形でレビューする。


谷口育美《BEAT》(2010年度優秀賞受賞)


谷口育美《BEAT》(2010年度優秀賞受賞)


柴田寿美と谷口育美はともに、「いま」を生きる女性たちのポートレート―女子高生と新宿のキャバクラ嬢―を軽やかに、瑞々しく、時にはコケティッシュに切り取ってみせる。それぞれ学校と職場という、自分自身が身を置く環境で撮影されているため(谷口はこの作品を撮るためにキャバクラで半年間働いたという)、女の子同士が共有する親密な空気感が気負いなく伝わってくる。特に谷口の作品は、インスタレーションとしての見せ方にも工夫が凝らされており、数十枚のモノクロのポートレートが、壁一面にパズルのピースのようにびっしりと貼られている。この不思議な形は、新宿・歌舞伎町の地図をベースにして写真をはめ込んだものであり、大小の路地が複雑に入り組んだ形の中に、数十枚のポートレートがそれぞれの存在を主張している。彼女たちは皆、派手なメイクや髪型、露出の激しい衣装を身に着けているが、生々しさやいやらしさはモノクロの抑制の中におさえられ、上空から俯瞰した視点の中に等身大のスナップが混在する、面白い展示となっていた。


齋藤陽道《同類》(2010年度優秀賞受賞)



齋藤陽道《同類》(2010年度優秀賞受賞)


齋藤陽道の《同類》を見た時、急に目の前の世界が開けたような、解放感を感じた。それは目に見えない風が吹き込んでくるような感覚に近いものだったのかもしれない。波打ち際に置かれた車椅子に座る赤ん坊の写真を取り囲むように、輪のように配されたイメージ。「影おくり」の遊戯のように、澄んだ青空を背に浮かび上がる逆光のポートレートや、白昼夢のような樹の影、暗闇で輝く赤い炎など、どこか異世界を感じさせる神秘的なイメージに混じって、穏やかな海や青空を背景に、被写体となっているのは障害者の人々であることに気づく。だが透明感あふれる画面は光に満ち、メッセージ性や衒いは感じられない。
展示を見た後で経歴を見て、齋藤自身ろう者であることを知った。そして「もともと障害者を扱った写真にたいして不満があり、モノクロで重厚すぎたり、逆にやたら笑顔で不自然なくらい明るい写真ばかりで違和感を覚えていた。また障害ごとにカテゴリー分けされることにも抵抗があった」というコメントを読んで、腑に落ちるものがあった。まだ自身が何者であるかも知らぬまま、生を歩み始めた赤ん坊、そして揺籃のような車椅子は、全ての生命の始原である海に抱かれている。この一枚を起点として、周囲を取り囲むイメージは、我々が「同類」として一つの大きな流れ、生命の循環の中にいることを伝えている。障害の有無、人間/動物という区分すら超えて、生あるものが持つ強さと美しさを全肯定しようとする意志が画面にみなぎり、見る者の心を静かに打つ。

高木考一《Fluid Film》(2010年度優秀賞受賞)


高木考一《Fluid Film》(2010年度優秀賞受賞)


暗闇で燃え盛り生き物のようにうごめく炎、流れ落ちる水の滴りやきらめき、反射光や逆光。高木考一が捉えるのは、炎や流体、光など、定まった形のない流動的な現象である。光の定着としての写真における実験性と、炎や水、光など、原初的な感覚の想起や象徴性が混在した画面。それらは、様々なサイズや出力方式で展示され、イメージ同士が有機的に結びつき合うような、工夫の凝らされたインスタレーションとなっている。
炎や水、光など、実体と非実体の境界にあるもの。さらにそれらのイメージは、光と闇、生と死など、境界上にある存在を召喚させる。また、光や滴る水は、髪の毛や手など身体の一部とともに写されることで、あたかも後光や立ち上るプラズマのように、身体から噴き出る神秘的なエネルギーを写し取ったようにも見えてくる。全てが管理されたような社会の中にあって、最も野蛮で聖なるものは、この身体の内に宿っているのかもしれない。

クロダミサト《家族の風景》(2009年度グランプリ受賞者)


クロダミサト《家族の風景》(2009年度グランプリ受賞者)


一見、「自然」なスナップの形を取りながら、写真が写すものが常に「真実」であるとする素朴な写真観に真っ向から対立するのが、昨年度の写真新世紀展でグランプリを受賞したクロダミサトの個展「家族の風景」である。
にこやかに、自然な笑顔で寄り添う二人組。壁一面にずらりと展示されているのは、一見、何の変哲もないシンプルなポートレートだ。父と息子とおぼしきツーショット。ピースサインで寄り添う母親らしき人物。仲の良さそうな兄弟。隣ではにかむ若い女性は、付き合い始めたばかりの彼女だろうか。どこにでもありそうな、ごく普通の「家族写真」。
だが、向かって左に写った若い男性がどの写真にも必ず登場することに気づいた時、違和感が頭をもたげてくる。「家族」の定義は、血縁関係の有無に関わらず、どこまで含めて考えることができるのだろうか?
シンプルな手法でクロダが問いかける、「家族」を定義することの複雑さ。さらに壁にはクロダからの謎かけのような文章が提示される。「あなたは、どれが本当の家族だと思いますか?」この一文を目にした時、ごくありふれた幸せそうな「家族」のスナップに見えたイメージは、真偽の狭間で、ある不穏さをまとって立ち現れ始める。そして観客は、自分自身に問うことになる。確たる保証がないにもかかわらず、なぜこれらのスナップを、家族写真であると素直に思ったのか、と。
クロダの写真が見る者に突きつけるのは、自己のアイデンティティの保証がイメージ自体の中には存在しないという残酷な事実と、「家族」の定義が多様化した現代のあり方である。少子化や晩婚化が進み、両親と子供という核家族がもはや典型とは言えなくなってきている現代。あるいは血縁関係の有無に関わらず、ルームシェアや老人ホームなど、様々なコミュニティのあり方の中に成立する「家族」。(「家族」を持たないことも含めて)どのような「家族」を選択するかの価値観や基準が多様になり、「どのような家族を持つか」が自己のアイデンティティの根幹に深く関わってくる現代。クロダの写真は、「写真が写すものは真実である」という無根拠な前提を欺きつつ、伝統的な家族像が崩壊し、家族の価値観が多様化した現代のリアリティを逆説的に浮かび上がらせている。


佐藤華連《だっぴがら》(2010年度グランプリ受賞)


佐藤華連《だっぴがら》(2010年度グランプリ受賞)


今年度グランプリ受賞の佐藤華連の《だっぴがら》もまた、写真の複写や加工といった操作を通して、イメージの表層性を暴くと同時に自己の内面のリアリティを抽出する試みを行っている。モノクロームで端正に写し取られた静物や室内のイメージ。脱ぎ捨てられ、だらりと椅子に掛けられた衣服や乱れたままのベッド、小鳥や蝶の剥製。そこに人の気配や体温はなく、無人の部屋や脱ぎ捨てられた衣服、命の抜け殻といった被写体のイメージは、あるべき中身が空洞化した、不在感を強調する。
さらに一枚一枚をよく見ると、画面の下方を斜めに走る白い直線や、写されたイメージ自体にクシャクシャと奇妙な皺が寄っているのが目にとまる。そして、これらは写真を再撮影した痕跡なのではないかと気づく。写された「元の写真」を縁取る白線や、クシャクシャの皺が喚起させるざわついた紙の質感は、イメージの表層性を露呈させる。佐藤によれば、写真をいったんモノクロでコピーして再撮影する、コピーしたものをクシャクシャに丸め、もう一度広げたり、破ってから再撮影するなど、様々な操作や変形が加えられているという。
再撮影や加工を繰り返すことで、写されたイメージは、元のイメージから何重にも「脱皮」し、新たな変容を遂げていく。だがそれは、完全に変容し、新たに生まれ変わったイメージの獲得自体が目的なのではない。佐藤が提示するのは、写真をクシャクシャに丸める、破って引き裂くなど、暴力を加えられた表面の痕跡であり、表面(でしかない)に無数の傷をつけられたイメージは痛みの感覚を喚起するとともに、元の写真に備わっていた情報が削ぎ落とされ、「本物らしさ」を劣化させていく。「《だっぴがら》は私のセルフポートレートです」と言う佐藤自身にとってそれは、容易に改変可能な記憶の不確かさや自己のアイデンティティの薄っぺらさに向き合い、そこからの「脱皮」をはかる過程での、身を引き裂くような変容の痛みの感覚を伴うものだったに違いない。佐藤は、脱ぎ捨てられた衣服、不在の部屋、動物の剥製など「虚」を強く意識させる被写体をさらに複写することによって、実物なのか模型なのか複写による「本物らしさの劣化」なのか判別不可能なイメージ群を出現させることで、逆説的に佐藤自身が内に抱く「脱け殻」の感覚をリアルなものとして提示することに成功している。

存在の中の光に、手を伸ばす―澄毅「光」


澄毅《光》2011年、Inkjet Print:121×86cm、86×61cm/Video:8min(撮影・写真提供:Port Gallery T)


澄毅《光》(2010年度佳作受賞)


今年度の佳作受賞の澄毅も、佐藤と同様、再撮影や加工を施すことで、写真を通して現在と過去を結びつけ、「記憶」を手繰り寄せようとする試みを行っている。澄の個展「光」が同時期に大阪のPort Gallery Tで開催されていたので、以下では個展のレビューとして記述する。
セピア色の写真に写った、眼鏡をかけた学生服の青年。和服姿の女性たち。新婚旅行の記念写真でポーズを取る男女。行楽地で撮った、カラーの家族写真。それらは皆、撮られたイメージそのものが発光しているかのように眩い光を放ち、点々と連なる光の粒は、記憶の中に佇む人影の輪郭を静謐に際立たせ、見る者と対峙させる。これらの写真は、澄自身の祖父が遺した家族アルバムの中の写真が素材となっており、複写して画用紙にプリントし、穴を開け、裏から光を当てて再撮影して制作されている。今は亡き祖父の遺品としての写真を再撮影し、そこに刻まれた記憶に再び光を当てること。いや、「かつてそこにあった」人々の存在を、目に見える光として画面に定着させ、現在の我々の元へと放射された光の痕跡として可視化させること。「過ぎ去っていったひとを残すのではなく、生身の人間の手を握るのと同じ感覚で、触れたいと思い制作した」とコメントする澄の作品は、ロラン・バルトが写真論『明るい部屋』の中で述べた、「光」を媒介として被写体の人物に「触れる」という感覚と通底しあっている。バルトは、亡き母の少女時代の写真の「発見」を通して、写真の本質は「それはかつてあった」ことであると指摘し、他の表象=再現の体系とは異なり、写真の実在性を保証するものは、対象から発せられた光が感光性物質によって直接固定されることにあると述べ、こう叙述する:

「写真とは文字通り指向対象から発出したものである。そこに存在した現実の物体から、放射物が発せられ、それがいまここにいる私に触れにやって来るのだ。伝達に要する時間は大して問題ではない。消滅してしまった存在の写真は、あたかもある星から遅れてやって来る光のように私に触れにやって来るのだ。撮影されたものの肉体と私の視線とは、へその緒のようなもので結ばれている。光は触知できないものであるが、写真の場合、光はまさしく肉体的媒質であり、一種の皮膚であって、私は撮影された男や女とそれを共有するのである。」(ロラン・バルト『明るい部屋―写真についての覚書』花輪光訳、みすず書房、1985年、p.99-100)

「へその緒」のように被写体と見る者を結びつけ、「皮膚」のように触れ合うことを可能にさせる光。写真論というより写真の受容論に近いバルトの思想を、澄は非常に美しい作品によって体現しているかのようだ。
光という、通常は触れない、非物質的媒体を通して、「手を握る」ように触れ合うこと。この逆説を可能にさせるのが、写真なのではないかという希望が、澄の作品の中には息づいている。個展会場には、祖父の写真を再撮影した作品に混じって、澄自身の現在の日常風景を撮った写真も溶け込むように展示され、過去と現在の断絶を提示するというよりも、かつて祖父達の周りにもこのような日常が確かに存在したことに思いを馳せられる空間となっている。

かつて、「光」によって印画紙に焼き付けられた存在に、もう一度「光」を透すこと。だがそれは、写されたイメージに穴を開けるという破損行為によって可能となる、逆説性や暴力性を孕んでもいる。澄の作品において、「光」はその美しさで見る者を魅了するとともに、両義的な存在でもある。
対象から発せられた文字通りの「光」が充満し、画面を覆えば覆うほど、写されたイメージをかき消していくのだ。見る者の視線が奥へと侵入することを拒み、視線を撹乱しながら乱舞する光の群れ。その「光」は、文字通り対象から放射され、被写体と我々とを結びつけるものであると同時に、露光のミスや偶然写り込んだ反射光などのように、通常はノイズとして処理される、意味の空白地帯を差し出してもいる。写されたイメージの表面を覆い、視線を遮断する「光」。それは、いま・ここにはいない存在から放射された「遺物」であると同時に、写真の表面にとっての「異物」でもある。「かつてここにあった」存在の証を再び焼き付けることと、ノイズとして処理される光。遺物/異物としての光の両義性に言及する澄の作品は、写真によって対象を記憶し内在化しようとすることへの欲望と、意味を読み取れない空白がなすすべもなく立ち塞がる困難さについても同時に示唆している。

追憶の中の美しい光。光学的現象である写真。ささやかな日常の中にふと訪れる、光輝くような瞬間。希望や再生、聖性のメタファーとしての光。「光」という個展タイトルは、そこに込められた様々な意味を想起させる。それは「写真」についての謂いでもある。「光」―澄の作品は、そこに込められた多様な意味が渾然一体となって、見る者を光と翳のめくるめく世界へといざなっていく。

写真新世紀 大阪展2011」
出展者:(グランプリ受賞)佐藤華連 (優秀賞受賞)齋藤陽道、柴田寿美、高木考一、谷口育美 (佳作受賞)牛久保賢二、木築憲一、小澄源太、澄毅、関本幸治、菱田雄介

クロダミサト「家族の風景」
2011年4月5日〜27日
ARTCOURT Gallery(大阪市北区)

澄毅「光」
2011年4月22日〜28日
Port Gallery T(大阪市西区)

 
著者のプロフィールや、近況など。

高嶋慈(たかしまめぐみ)

1983年大阪府生まれ。
京都大学大学院在籍。『明倫art』(京都芸術センター発行紙)にて隔月で展評を執筆。関西をベースに発信していきます。




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