topreviews[「美術の中の動物たち」/兵庫]
「美術の中の動物たち」
池水慶一《今年の夏、私は象になった。あなたは象にならなかったか。》
写真パネル+配布用印刷物(1969)印刷物2枚を配布


「知らない」は済まされること?
TEXT 藤田千彩

先日、友達の家に遊びに行って、初めて知ったことがあった。
自分が猫アレルギーだった、ということである。
動物園より美術館が好きなのは、そういうことだったのか、と36年間生きてきて気付いたのだ。

そんな私にとって、「美術の中の動物たち」という展覧会タイトルが引っかかった。
美術の“中の”、つまり、作品のモチーフとしてつかわれているということであろう。
檻(おり)の中で動物がこっちを見ているわけではない、と覚悟を決めて足を運んだ。

会場入るといきなり、象が写された大きなパネルが張ってあった。
池水慶一の《今年の夏、私は象になった。あなたは象にならなかったか。》である。
よりによってなぜ象なのかは不明だが、目が釘付けになる。
私は象に乗ったことがあって、太ももに象の剛毛が刺さって痛かゆかった記憶がよみがえる。
こんな大きさだったっけと思い出せないし、ぶれている足のように象が活発な動きをする動物だったかも覚えていない。
この写真パネルが1969年の作品であることに気づき、また仰天する。
パネル横に、象の生態について書かれた、わら半紙のプリントが積んである。
この紙の質にさえ、小学校のなつかしさを思い出させる。
たった一枚の象の写真と資料なのに、いろいろな思い(出)がフラッシュバックする。
象じゃん、と言われればそれまでだが、たった一枚のものからいろいろな引き出しを開けたり閉じたりしなくてはいけない。
そんなインパクトがある作品こそ「現代美術」だと思っていたけど、ここ数年の間、私の引き出しは動きが鈍くなっていたらしい。


左)池水慶一《にっぽんのラクダ》
  分布図+配布用印刷物(1973/2010)印刷物3枚を配布
右)池水慶一《HOMOSAPIENS》
  インクジェットプリント、タイベック(1965/2010)ハプニングの記録写真

さらに全国にいるラクダの数を調べたパネルがある。
これもれっきとした《にっぽんのラクダ》という作品タイトルがついているが、夏休みの研究発表のようだ。
私が生まれる1年前、1973年の統計らしい。
「いまもラクダっているんだろうか」と、ふと疑問に思う。
しかもその横には、池水本人が檻に入っている写真が置かれている。
等身大とも思えるその大きな写真に「人間も動物か」と頭を抱えてしまう。
しかも象やラクダはモノクロで、池水はカラーの写真だ。
色の有無も関係ないじゃん、と言われればそれまでだが、人間様のほうを美しくありのままで保存したいと考えたに違いない。


右)《Swell-Deer》(2010)ミクストメディア
左)《Swell-Tiger》(2010)ミクストメディア

流れに沿って会場を進むと、モコモコした立体が2つ、台座に載せられていた。
私つまり大人の視線で、少し下に見るような位置に置かれていたのは、名和晃平の新作《Swell》だった。

「Swell」は、インターネットを介して集められた剥製などのモチーフの表面を、発泡ポリウレタンによるモコモコと膨らんだテクスチャーで覆った作品です。2液性の発泡ポリウレタンを容器のなかで素早く撹拌し、化学反応が始まったらモチーフに垂らしかけます。粘り気のある泡状の液体は表面をゆっくり移動し、発熱しながら膨らみ続け、やがて固まります。モチーフを360度回転させながらこの行為を繰り返すと、全ての表面が方向性のない入り組んだ突起と素材特有の鈍い表皮に覆われていきます。
「Swell」は2009年に銀座のメゾン・エルメス8Fフォーラムで発表した「Villus」(*1)と同じように、[SCUM](*2)のカテゴリーに入る彫刻のシリーズです。

(*1)「Villus」 モチーフの周辺に気流を発生させ、空中で混合させたポリウレタン樹脂を吹き付けると、その表皮から柔毛状に触手が伸び、膨張がはじまる。輪郭や
テクスチャーが鈍磨し、徐々にうつろなボリュームを帯びた[SCUM](あく・屑)へと近づいていく。

(*2)[SCUM] 膨張する表皮のイメージは、PixCell- の泡(=Cell)が必要以上に湧き出て「あく(=Scum)」となり、膨らんで鈍磨していくような感覚。発泡ポリウレタンの断面はまさに泡構造。

壁に貼られたこの説明文のパネルで、この作品がどうやってつくられているか、はなんとなく理解できる。
しかし名和を知らない観客からすれば、これも動物をつかった、と言われてもピンと来ないはずだ。
説明を読んでも、剥製などのモチーフをどうして覆う必要があるのか、という疑問が沸くに違いないと想像した。
私も、練っている途中のパンの生地だったり、小麦粘土のような触感のものが、短くぶちぶち巻きついているようにしか見えない。
加えて、横たわった状態なので、どっちが頭か、はたまたこれは動物なのか、一体なんの動物なのか、と不思議に感じた。


手前)《暖》(2009)ポリエステル樹脂
奥)《裸々々》(2003)ポリエステル樹脂

はっきりしたもの、不透明なもの、という流れで出てきた3つめの作品は、はっきりと「豚」の立体作品だった。しかも作家の名前は「小野養豚ん」、読み方が分からないが、実家が養豚場のためらしい。
私は豚肉をしょっちゅう食べているが、豚自体は見たことがない。
だから豚のリアルなサイズ、動き、鳴き声、におい、肌など、まったく想像つかない。
ましてや「かわいい」など、付随する何かしらの感情も想起できない。
そこでハッと気づく。
こういう「部分はよく見るけど、本体や実物を知らない」というものに囲まれて、生活していることに。
魚の切り身も、米粒も、部分に過ぎない。
いま叩いているパソコンのキーだって、さっき鳴ってた携帯だって、もともと何でつくられているのか分からない。
小野の豚作品を「剥製です」と言われたら「案外つるつるなのね」と思うだろう。
「もとの豚はあと10センチほど足が長い」と言われても「そうなのね」と思うだろう。
「本当はもっと白い色なんです」と言われても「もっと赤い色なんです」と言われても、うなずくだけだ。
そう考えると、今年の夏に話題となった口蹄疫の問題だけでない、私たちに警告を発しているのかもしれない。

 
それぞれ《ドローイング》(2010)ペン、鉛筆、紙
一面の壁には、ドローイングが掛けられていた。
うすぼんやりと描かれているのも、豚をクローズアップしたものであろう。
立体はオブジェ、単なる形の模倣と言いきってしまえるのだが、このドローイングは息を飲むほど美しい。
しつこいが私は実物の豚を知らない。
小野にとって豚は、美の対象であり、尊敬のまなざしなのであろう。
そうでなければ、こんなに優しい筆致や美しい線で、部分を暖かい視点で拡大化しないはずだ。
私は自分の無知さを知った、しかし、どこで豚の実物が見られるのか、皆目見当がつかなかった。




植松琢麿 展示風景
色が使われていた小野の作品群の隣には、静かな白を基調とした植松琢麿作品がインスタレーションされている。
中央に、躯体を曲げた《crystal deer》が、太い銀色のワイヤーで吊られている。
「ごめんなさい」と言わんばかりに背中を丸め、頭を下げている。
それとも捕まえられて、ぐったりしているのだろうか。
かわいそうな鹿に目をとらわれてると、足元に置かれた小品をあやうく踏みそうになる。
そう、会場は自由な場所ではない。
ところが、本来動物がいる場所は自由なはずだ。
はっと壁を見ると、一面には立体作品のもととなるドローイングが列をなし、別の一面では写真作品《ceremony》のシリーズが並んでいる。
額や紙といった決まった大きさの中にいる動物たち。
あたかも動物園の檻におさまっていたり、ゲージに飼われている小動物を見ているようだ。
こっちを見るもの、よそ見しているもの。
実物ではなく、イメージとしての動物が、絵や写真となって表現されているにも関わらず、キャッキャッ、とか、クエックエッとか、鳴き声がするようだ。
それは、どこかでとらわれた動物を想像するあまり、私の心が痛む音だったのかもしれない。


淀川テクニック 展示風景

 


淀川テクニック 展示風景
瀬戸内国際芸術祭がはじまり、岡山の実家にいる母親から「淀川テクニックさんのチヌが見たい」と聞くようになった。
これまで私は、「淀川テクニックはゴミを集めて魚をつくるアーティスト」という意識しかもっていなかったが、母親のような現代美術素人の心にまで引っかかるのか、
と驚いた。
おまけに私がこの尼崎での展示を見たとき、子どもたちがすごい反応を示していた。
「パパ、これ何でできてると思う?」
「これとこれ組み合わせて、僕もつくれるかな」
「見て、すごいやん」
親に手をつながれた、ではなく、親の手を引っ張って子どもたちが作品についてしゃべっている。
もう展示会場は、ゴミの集積所などではなく、何かをつくるための素材が置かれた場所となっていた。
床に置かれたゴミを、子どもたちはちょっと汚そうにつまみ上げ、ショウウインドウに置かれた淀川テクニックの作品を見ながら、自分の手元を見つめ直す。
「これちゃうわ」と置き直したり、「お父さんこれ持ってて」と共同作業をしていたり。
専門のスタッフが立ち会っているわけではないワークショップコーナーでは、積極的に手を伸ばす多くの子どもたちがいた。
現代美術ってなに、という問題意識ではなく、どんなものをどう組み合わせたら魚(の形)になるのか、パズルをひもとくような楽しさを感じているのだろう。

*****

最後に、私が疑問に感じたことがあったので書かせていただく。
今回のカタログでは、実に丹念な「主要参考文献」が作家ごとに掲載されている。
しかしこの中には「ウェブサイト」が見当たらないのだ。

個人的な話になるが、この夏は国文学研究所で「アーカイブズ・カレッジ」という研修に通っていた。
歴史学をもとにした研修内容では、ウェブサイトの記録について討議されることはなかった。
つまり私が知りたかった、
このPEELERはアーカイブズとなりえるのか、30年前の「美術手帖」が図書館で見られるようにウェブサイトは見られないのだろうか。
そして、参考文献として、つまり学術文献として、ウェブサイトは認められないのだろうか。
という疑問は、発展途上の課題として残されたままとなっている。

本展覧会のテーマであった動物は、実物が置かれていたわけではなく、あくまで写真だったり形をみたてたものであった、いわば「虚像」だった。
同じようにこうした記録も、紙に印刷されたものでなければ実存の記録ではなく、ウェブサイトであれば「虚像」なのだろうか。
私はそれを知りたい。知らない、では済ませられないからだ。


「美術の中の動物たち」
2010年7月24日〜8月29日

尼崎市総合文化センター(兵庫県尼崎市)
 
著者プロフィールや、近況など。

藤田千彩(ふじたちさい)

1974年岡山県生まれ。

アート+●●しながら、楽しく生きてます、はい。
メール chisaichan@hotmail.com





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