topreviews[『春展』/神奈川]
『春展』

ものの中心には、案外何もないのかも...。
TEXT 安東寛

 今回、春の陽気に誘われたのと、新年度にあたりガンバッテいる学生達の作品が見たくてやってきたのは、ギャラリーon the windで行なわれていた女子美術大学の有志の学生達の合同展『春展』だ。


下川 智美《pandism》 リトグラフ
 
下川 智美《pandism》 リトグラフ

 会場内でまず目にとまったのは、下河のシンプルなパンダの絵だった。「pandism」(パンダ主義)という変わったタイトルがつけられ、前・横・後から見たパンダの姿を描いている。とても強いシンプル感を与える作品だ。それはひょうたんのような体型の中に、パンダ特有の目の周りやお腹周りの黒い模様が、白紙にボトボトと墨汁をこぼした感じで描かれているからだろう。白と黒のモノトーン模様のシンプルなコンビネーションがそう感じさせるのだ。
そして彼女のポートフォリオを見ると、彼女はただの可愛いパンダの絵を描こうとしているのではないことがわかってくる。例えば「パンダが1回転する様子」を描いた作品があるが、この作品から「一回転するパンダをあらゆる角度から観察してその本質に迫ろう」という彼女の意図が伝わってくる。もちろん今回の前・横・後姿のパンダもしかりである。
そして以前の展覧会で、彼女が細胞の存在に魅了され「オリジナリティー溢れる細胞」を描いていたことを思い出したとき、パンダが気になる理由がわかった気がした。彼女は細胞という人体を構成する根本的な存在に魅力を感じるのと同様に、パンダにもそんな“生物の根本的な秘密を握るコア的な存在感”を感じているのではないだろうか。
そこで改めてパンダの姿を見てみると、やはり白と黒という色のコンビネーションに謎を解く鍵がある気がする。そこから想起させるのは、“一つの円の中に黒の中に白があり白の中に黒がある様子が描かれた”陰(黒)と陽(白)が相まった様子を表現した「対極図」だ。思えばパンダは対極図の道教の発祥地・中国の動物であり、因縁を感じる。道教のタオイズムと彼女のパンディズムは相通じるものがありそうだ。
またパンダは熊の一種で雑食性なのに笹を食べることも不思議だ。パンダの子孫は草を多く食べることで競争相手のいない中国の山岳地帯に広まった、という。もしかしたら一部の熊が中国の精神性の高いタオイズムの風土に影響され、争いを好まない悟りを開いた存在に進化したということなのかもしれない...。こんなパンダの奥深さに気づくとは、下河の洞察眼に感心させられる。

 
星 亜莉沙《ソンノランス》リトグラフ


星 亜莉沙《エガレ》リトグラフ


小玉 千咲《出番待ち》油彩

 星の作品「ソンノランス」は、水中でユラユラ泳ぐクラゲを描いたものだ。ソンノランスとはフランス語でいねむりの意味。ユラユラといねむりしながら泳いでいるかのようなクラゲをうまく表現している。また開花後、フワフワ・ユラユラと落ちてゆく花火の火花の様子にも似ていて「形の定まっていない偶発的に発生したもの」を描いている印象もある。そんな彼女は昔から透かし模様のレースが好きで、レース模様の絵を描くことが多いという。
ところでレースとは、よく考えると不思議なものだ。それは線を交差させて作っているため、その中心には空白が出来上がる。それをレースの目と呼ぶが、まるで台風の目のようにそこはぽっかりと空いた何もない空間なのだ。空間と線によって出来た、あるようでないような物体がレースなのだ。しかしそんなふんわりとした存在感がレースの魅力なのだろう。
そんなレース好きの彼女のポートフォリオを見てみると、“ウロコの模様の一つ一つまでもがレース模様で編まれている様子”を描いた彼女の作品「エガレ」が気になった。細かいウロコの模様を拡大すると、またその中に細かいレース模様がある...。小さいものもさらに小さいものの集合体で出来ているという、究極の最小の世界を表現しているといえよう。
しかし彼女の場合はそれをレース模様にしているのが深い。物体は究極の最小の世界に行き着くとそこには何もない。物体とはレース模様のような微妙な存在で、「本当に確かなものは存在しない」という物質の不確かさを表現しているかのように思える。
またレース模様は開花した花火の姿に似ている。そして開花後の花火の様子に似たソンノランスのクラゲも半透明のゼリー状の、いるのいないののか判然としない生き物だ。彼女は「全ての存在はふんわりと存在している」という真実を表現しようとしているように思える。

 小玉の作品「出番待ち」は、自分が幼稚園のときの“近所の小学校の運動会に鼓笛隊としてゲスト出演した際の出番待ちの様子”を、当時の写真をもとに描いたものだ。周りの人々の表情もリアルに描かれていて、作品が116.5×80.5と大きいこともあり、力作といえよう。しかしなぜこんな大作の題材に、“画面の中央で緊張して硬直した表情の自分と周囲の人々”といった、ある意味地味なものを選んだのだろうか? 当然彼女が演奏している本番中の場面の写真もあっただろうに...。この場面に目をつけた、彼女の審美眼が気にかかる。
彼女は「自分が多くの人々の中心で無表情で止まっていて、その反対に周りには動きがあることが面白いと感じた」とのこと。確かに周囲の人々は“誰かを呼び寄せる先生”“しかめっ面の男の子”“会話をしている子供達”など、表情に動きがありユーモラスさまで感じる。
またみんな好き勝手な方向を向いていて、アナーキーといってもよい状態だ。さらに園児の服や楽器の情熱的な赤の色が、人々の気分が高揚している様子を表しているかのようだ。しかし小さい彼女の表情だけは、コンパスの中心のように動かず固まってしまっている。
なぜ彼女は固まっているのか...?理由について考えれば、こんな緊張の舞台を否応なしに押し付けられている小さい子供の心境を考えれば、当然なのかもしれない。小さい幼稚園児でもお遊戯の時間中に白けている子供が意外と多いのと同じように...。
このときの小さい彼女にとっては、“人生初の大緊張の瞬間”だったのだろう。彼女の固まった表情は「なぜこんなところにいて、こんなことをしなくてはならないんだろう...?」の表情なのだろう。
しかし彼女がこんな“大人社会に対する批判”的な意味でこれを描いたのではないだろう。単に周りと自分の表情のギャップに面白さを感じたとのことだったのだろう。
私はなんだか、彼女の固まった表情が“台風の目”のように思えて面白く感じた。洗濯機の中もそうだが、いくら周りに嵐のような大きな動きがあっても、必ずその真ん中ではぽっかりと穴が開いてしまう。いくら大流行が起こっても周りで大騒ぎが起こっていても必ず中心に覚めた(冷めた)人が存在するそんなことを表現しているようで、とても深〜いものを感じたのだった。


立川 美圭《nam》油彩



 
 立川の作品「nami」は抽象画なのだが...。私はあまり抽象画は好きではないのだ。それは自分が理屈っぽいせいもあり、何か“わかるもの”が描かれていないと、掴みどころがない感じがするからだ。しかし作品「nami」に対する彼女の説明を聞いているうち、初めて抽象画の魅力に気づかされた。そしてその理解しづらい外見の裏に隠された抽象画の潜在能力の高さに驚かされたのだった。
彼女は“川沿いの土手の道”の写真を元に、それでいてその対象物にとらわれずに何かを感覚的に描いたものだ、という。なんだか難解な作品に思えてくる。
しかし具象画と抽象画ということでいえば、例えば“自然の美しさ”を表現するのに「湖面に写る富士山」を通じてそれを表現するのは理解しやすい。しかし抽象画は、その“自然って美しい!”という感覚そのものを描くことといえるのではないだろうか。だから描き手にとっても鑑賞者にとっても難易度の高い手法なのかもしれない。いうなれば“五感を超えた第六感以上を必要とする超常的表現方法”ともいえよう。
そんな超常的表現方法とは原始的な表現方法ともいえよう。例えばアフリカの原住民やインディアンが描いた壁画に似た作品は、抽象画の世界に近いのではないだろうか。
人間の原始的な感覚、もしくは子供の持つ感覚を持っていれば、抽象画は理解しやすいのかもしれない。となると私のように抽象画を難解に感じる人間は、“子供の心を忘れた寂しい大人”なのかもしれない。
そこで彼女の作品に、自分の心を白紙にした気分で対峙してみた。すると...“とても迫力ある迫ってくる感覚”を感じることは出来る...、しかし画面左上の円形の部分が目に見えてきて...、なんだか“薄ピンク色の蛇”のような具体的な像を捕らえてしまうのである。まだまだ抽象画の楽しみ方を知るのは先のこととなりそうだ...。

 
川合 永恵《UNTITLED》


川合 永恵《UNTITLED》


川合 永恵《痕》油彩

 川合の作品は、シンメトリーの美しい写真作品だ。何がモチーフなのか判別しづらいが、実はこれらは鶏肉の唐揚げや、レタス・ニンジン等の野菜の写真なのだという。それらの対象物の写真を様々な角度から撮り、パソコンに取り込み、それぞれ半透明のレイヤーにして重ね合わせ、反転させたり、彩度・明度を変え色を変化させたりして納得いくまで数値をいじり、加工させて出来上がったものなのだ。
それにしても人の顔に似たものが多く面白く感じてしまうが、それは偶然で、最終的に顔に似せることが彼女の作品の方向性ではないようだ。鑑賞者がそう感じやすいのは、画像の左側にあるものを反転させて右側に持ってきて重ねると、シンメトリー効果が生まれ、人の顔に見慣れた我々にとっては“身近なシンメトリー=顔”となり、そう認識しやすくなるからだ、と彼女はいう。
それではこの作品は何を表現しようとしているのだろう。そのヒントは過去の絵画作品の中にあった。女性の顔が二重にダブっているセクシーな雰囲気を漂わせている作品「痕」というものがある。彼女はこの顔がダブった様子で“時間の経過”を表現しているという。これこそ彼女の主題なのだ。
そういえば以前の合同展「シカク展」で、前出の立川が“自宅の窓の外の同じ風景を角度を変えたり別の時間帯に撮影したりし、それら何枚もの写真を半透明のレイヤーにして重ねる”作品を作っていたことを思い出した。彼女はこの作品で“それぞれの写真の撮影時の本人の気持ちや時間の積み重ね”を表現していた。
川合も“時間の経過による変化”を表現しているのではないだろうか。画面左側の対象物を右側に反転させて重ねるとは“物体が左から右へ移動した”ことを表しているのだろう。“物体は時間の経過とともに様々な場所へ移動したり戻ってきたり、形や色を変えたりする”そんな物質の変化をその画像を重ねることにより表現しているのではないだろうか。
さらにモチーフが肉や野菜という生ものであることを考えると、“色を加工して変化させる”ことで、時間とともに腐ってゆく過程として表現しているようにも思えてきて、納得できる。
またこの作品は一見すると“万華鏡の中の映像”にも似ている。このことから、万華鏡を覗くという遊びの裏には“時間の経過を目撃している”という深いテーマがあるのかもしれない...そんなことにも気づかされる彼女の作品であった。

 今回の合同展では、私好みの“ダークでシュールな世界”を展開している人が少なかったのが残念であった。しかしそれぞれの作品の裏にある作者の意図は、私好みの深〜い意味を持ったものが多く、それぞれについて考えているのが楽しかった。
というわけで、これからは好みの作風や外見に惑わされず、作品を鑑賞していきたい、と思ったのであった。


『春展』
2010年3月27日28日 4月3日4日

下河 智美/星 亜莉沙/小玉 千咲/立川 美圭/川合 永恵
5人とも女子美術大学 在学中

art gallery, on the wind (神奈川県横浜市)
 
著者のプロフィールや、近況など。

安東寛(あんどうひろし)

1969年 神奈川県生まれ。現在月刊ムーを中心にして執筆活動をする、妖怪と妖精を愛するフリー・ライター。
趣味で色鉛筆画を描いてます。

5/15のデザインフェスタに出展します。ブース番号はC+1679です。




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