topreviews[PIANISSIMO 田中みぎわ/留守玲展−冬の浜辺から−/神奈川]
PIANISSIMO 田中みぎわ/留守玲展−冬の浜辺から−

[手前の立体作品] 留守玲 《水蜜桃こむらがえり》 2005年 個人蔵 [奥の平面作品] 田中みぎわ《優しい雨》2007年 個人蔵

言葉と想像力のあいだで
TEXT 藤田千彩

「人に美術を伝える」仕事のなかで、いちばん大変だと私が思うことは、
「文章を読んで作品や展覧会が想像できるか」ということだろう。
美術史の流れで説明をしたり、素材や画材について語ることは、
読者にとっても知識になるし、書き手にとっても分かりやすいたとえとして使いやすい。

 
[手前の立体作品] 留守玲 《森−下向きに生える100の麟角》 2006年 個人蔵 [奥の平面作品 左より] 田中みぎわ《天のとばり》2007年 個人蔵/田中みぎわ《屋根なきあらか》2007年 個人蔵/田中みぎわ《さんざめく野》2007年 個人蔵

[手前の立体作品] 留守玲 《うつそみへ、探勝を凝らす。》 2004年 個人蔵  ※3点とも  [奥・左の平面作品] 田中みぎわ《心の帆》2009年 個人蔵 [奥・右の平面作品] 田中みぎわ《神様の手のひら》2008年 個人蔵
しかし、それができにくい現代美術の場合、
書き手の意見(感想)を入れ込むことになるのだが、
個人的な言葉を客観的にうまく伝えることほど難しいことはないことに気づく。

・・・・・

「PIANISSIMO 田中みぎわ/留守玲展−冬の浜辺から−」展は、
湘南の海がほど近い茅ヶ崎市美術館で開かれた。
私と同世代の女性作家による2人展の会場は、りんとした意思の強い作品ばかりが並んでいた。
一通り見て私は「たおやか」という形容詞が浮かんだ。

たお・やか
[形動][[文語的]]しなやかで優美だ。
(角川国語辞典より)

何かの小説で目にした「たおやか」から受けた感情と、
この2人の作家の表現を見た印象が似ている、と思ったからだった。
しかし「たおやか」という言葉が本当にこういうふうにつかわれるのか、
あるいはPEELERを読んでいる人も「たおやか」という言葉を共有できるのか、
意味が分かってもらえるのか、と不安にもなる。

そういう視点で、2人の作品を紹介していくことにする。

・・・・・


田中みぎわ 《春の森》 2009年 個人蔵 (C)末正真礼生

1974年生まれの田中みぎわの作品は、水墨画、つまり墨をつかって、うすく重ねたり
にじみによって、風景をモノクロームで表現している。

私は、画面から引いて、見る。
例えば、いくつかあった「雨」を描いた作品。
美術館で展示を見て、ふと大きな窓を見やると「しゃあしゃあ」と音を立てて雨が降っている、
春とか秋とかによく出くわすワンシーン、のようだった。
絵から音が聞こえたように感じたのは久しぶりだった。
あるいは「どす黒い雲が空を覆っている」作品。
帰るのがイヤだな、めんどくさいな、と思わせる空模様は、私だけでなく誰もが経験したことがあるだろう。
こうして、田中の作品ひとつひとつに、いろいろな思いを重ねていた。
田中が描いた場所と絶対違うのに、私には既視感がある風景、そこで抱いた感情、
あったであろう出来事を想像してしまったのだ。

そして私は画面に近づく。
筆の動きの細かさ、点とか線とかいう単語じゃない、チョッチョッと筆が小走りしていくようなさま、
シャッシャッと腕をふるうよう、そういう描き方の連続や重なりが見える。
私が「ここ‘は’」なのか、「ここ‘で’」なのか、「ここ‘に’」なのか、
たった一文字で意味や印象が変わる文章に悩むように、
田中の筆は、たった数センチ、数ミリの長さの違いで、雨なのか揺れる枝なのかを表現しているのだろう。
田中自身の感性だけでなく、鑑賞者の立場に立って、筆を選び、線を引き、色の濃淡を変えていくのだろう。
大きな画面に残された筆の跡ひとつひとつに、私はいろいろな思いを馳せていく。

・・・・・


留守玲 《森−下向きに生える100の麟角》 2006年 個人蔵 (C)末正真礼生

壁に田中の作品が張られているのと対照的に、
留守玲の立体作品は展示室の中央部や隅に置かれていた。

1976年生まれの留守の作品を見るのは2回目である。
東京国立近代美術館工芸館で2007年にあった「工芸館開館30周年記念展II 工芸の力−21世紀の展望」展で初めて見たとき、
黒くてぼってりした鉄の作品が、女性作家と思えない大きさと威圧感を感じたことを覚えている。

至近距離で手に取るように見ることができた今回の展示方法。
作品の表面が気になった、ギザギザした、小さな層の重なり、が。
海に行くと、波によって削られたり欠けている岩を見かけるだろう。
まさにそんな印象を受ける。
同時に「これ鉄だから、どうやってつくるの」と疑問に思う。
自動車の車体のように、鉄はカタマリ、としか思っていない私は、
こんな小さなギザギザの層をつくることを不思議に感じる。

「1ミリ〜10ミリの色々な厚さの鉄板を熔断するのですが、その下に銅板を敷いておき、 熔けた鉄がビシャビシャ落ちて板状になったものをはがして使います。」
(展覧会カタログP44より)

そうやってつくるんだ、ああ、すごい、こわい、でもすごい。
火花が飛び散るアトリエで、分厚い手袋をして溶けた鉄を扱う留守の姿を、私は勝手に想像する。
想像しながら、改めて作品を見つめる。
形もぎざぎざも小さなチップが、何重にも何十重にもなって、大きなかたまりをつくっている。
岩や石のようにだけでなく、竜や大蛇のようにも見える。
台座に置かれた作品も、小さそうに見えるけど、やっぱりひとつひとつ圧倒される。
こういうパワーを、目だけでなく全身で感じることができることが、美術の面白さなのだ。

・・・・・

上記の文章を、美術館にチェックをしてもらった。
田中みぎわは、筆で描くことも行っているが、本紙の上に水を引き、そこに墨を置いてパネルを動かす、
所謂、筆で描かない行為によってなされる表現こそがあの画面をつくりあげているという印象がある。
(メールより抜粋要約)


とのこと。
見た作品制作の真実を文章に出来ていない自分を深く反省した。
と同時に、ふたりの作家そして作品が、
堂々としていながら、繊細な部分をあわせもつ展覧会を、
もっと多くの人に見て、感じて欲しいと思った。


PIANISSIMO 田中みぎわ/留守玲展−冬の浜辺から−
2009年12月13日〜2010年2月14日

茅ヶ崎市美術館(神奈川県茅ヶ崎市)
 
著者のプロフィールや、近況など。

藤田千彩(ふじたちさい)

1974年岡山県生まれ、東京都在住、アート+文章書き。
オシゴトください。→chisaichan@hotmail.com




topnewsreviewscolumnspeoplespecialarchivewhat's PEELERwritersnewslettermail

Copyright (C) PEELER. All Rights Reserved.