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| a.太田三郎《postmarked camellia leaf》(各1987,
1988) |
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b.太田三郎《September 未ダ熟サズ》の内の一点(2003)(左)と拡大(右)
c.太田三郎《September 未ダ熟サズ》の内の一点(2003) (左)と拡大(右)
d.太田三郎《冬の色》の内の一点(2005) (左)と拡大(右)
e.太田三郎《Beach Sands 2006年11月14日鳥取県白兎海岸》(2006) (左)と拡大(右)
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展覧会タイトル「太田三郎を中心に ― 日常の、アート」に示されているように、「日常」というテーマのもと、切手の作品で知られる太田三郎に加え、若手作家3名を集めた展覧会である。足を踏み入れるとまず、受付にさりげなく置かれた2点の太田三郎の初期作品に目が留まる(画像a)。椿の描かれた切手が椿の葉に貼ってあり、昭和62年と63年の日付の郵便スタンプが押されていた。(一応補足すると、これは西暦では1987・1988年のこととなる。)
太田は、1980年代から現在に至るまで、切手という媒体にこだわりながら制作を続けている。郵便を素材にする芸術、メール・アートが起こったのは1960年代初頭のことだ。ロバート・ワッツや塩見允枝子をはじめとするフルクサスの作家たちにおいても郵便は重要な役割を担ったし、ニューヨークではレイ・ジョンソンが郵便によるコミュニケーションを主体とする「ニューヨーク通信学校」を組織していた。60年代に郵便という素材に注目が集まったのは、美術館での展示など因習的な芸術のあり方が疑問視されたためである。「高級」な芸術ではなく日常の中にある芸術を求める姿勢は、日常的な物品による芸術を生み出していく。とりわけ、人と人をつなぐコミュニケーションの道具である郵便は、白い壁や床に行儀よく収まっている芸術作品に匹敵する力を秘めたものだった。彼らの前の世代では、日常と芸術の分離を唱える芸術の純粋主義が主流であったが、60年代にはその反動として、フルクサスやポップ・アートの作家たちが日常と芸術の垣根を取り払おうとした……というのが20世紀美術の歴史だ。
メール・アートが登場した60年代の「日常への回帰」という姿勢には、このような歴史的背景がある。しかし現代では、日常と芸術のあいだに垣根というものはもはや存在していないかのようだ。また、この展覧会のテーマは、日常物の芸術というよりも「日々の営み」としての芸術、つまり日常性の芸術である。今なお芸術に日常が、日常に芸術が求められるのは、越境するということよりも、まさにその境界領域にこそ、重要ななにかがあるからだろうか……などと漠然と思いながら、この展覧会を見てみた。
太田の近作では、植物をテーマにしたオリジナル切手の、タイポロジーのようなシリーズが出展されていた。《September−未ダ熟サズ》(画像b,
c)は、同種類の小さな実がリズミカルに配置され、1シートの切手として印刷されたものだ。シートが1枚しかなければただ「実」としか認識しないだろうが、何種類も並べてあり、実は実でも種によってまったくかたちが異なるのに気付かされる。実のかたちの多様さに目を見張り、カール・ブロスフェルトによる植物のクローズアップ写真(『芸術の原型』1928年)を思い起こす。日常に向けられたファインダーは、普段見落としがちな微小な物の驚くべきかたちを見出すようだ。太田の場合、発見の次に来る作業――切手に仕立てることが、彼の独自性である。記念切手や切手収集という趣味からもわかるように、切手はモニュメンタルな意味合いや収集価値を持つ。太田は、発見した小さな世界を、違う日常に移し変え記念碑をつくるのだ。
同じく近作《冬の色》(画像d)は、和紙で作った自家製の葉書に植物の種を封じ込めたものだ。葉書には、同じ植物の実が前述のように切手にされて貼られていた。つまりこういうことだろうか。発見された微細な世界、魅惑的なかたちの実は朽ちてしまうが、そこには種が残される。その種は保存され、梱包され、葉書という媒体に載せられる。世界の種は、いつかこの葉書と共に、どこかへたどり着き、再度美しい花や実をつけるかもしれない。
太田のオリジナル切手は、植物以外にも、海辺の漂流物などの様々なシリーズがある。今回は他に、切手全面にクローズアップで撮られた砂が印刷された《Beach
sands》シリーズが出展されていた(画像e)。砂の切手は展示室の床に無造作に撒かれており、ガラスに反射して、透き通った波間に覗く実際の砂浜のようだった。
そんな太田の作品と並べられていたのは、寺田就子、林勇気、寄神くりの作品だった。彼らの作品は、世代の違う太田の作品と通じるものがあり、とても調和していた。というのも、日常の中に発見した世界の種を、彼らはもう一度自分のところで開花させたように感じたからだ。
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| f.寺田就子《雲のシルエット》(2007) g.寺田就子《空に思う》(2006) h.寺田就子《風を見下ろす》(2006) |

寺田の作品は、ガラスや鏡、飛行機や球の形をした小さな金属、鮮やかなプラスティック・ボール、種子などの素材を組み合わせたものだ(画像f,
g)。その意外な組み合わせは、シュルレアリスムの手法・デペイズマンを思わせる。だが、デペイズマンのようにその物の持つ既存の意味を宙吊りにし、非合理の内に置くというよりも、寺田の作品では、それらの組み合わせ自体がある種の完全性を感じさせ、別の世界の公理を体現するかのようである。《風を見下ろす》(画像h)という作品では、タンポポの種子がガラスに保護されており、太田の葉書の作品と同様、包まれ大切に保管されているかのようだった。それは、日常における瞬間を凝固させ、微風にもそよぐことのない永遠性を与えていたように思う。

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i.林勇気《garden》(2008)
j.林勇気《1st resort》(2003)
k.寄神くり《Drawing》(2007)
l.寄神くり《Drawing》の一部 |

林の作品は、ゲームのように縦横スクロールする画面の中を、小さな人物が動く反復映像だった。近作《garden》(画像
i)は蟻の巣状の無機質な画面を一人の人物が動くもので、ジャンプしたり泳いだりするときにポップな効果音が出て、マリオみたいだ。小さなモニターを並べて展示してあった前作では、よりたくさんの人物がうじゃうじゃ動いていて(人が降ったりもしている)、フィールド・レコーディングした現実の音を用いていた(画像j)。近作になるにつれゲームっぽさが増しているのだが、林の制作は、コンピュータ上だけでおこなわれているわけではない。画面の中の小さな世界は、現実世界で撮影されたものを素材にして構成されている。日常が、「永遠性」というより、「終わりのなさ」という現代的感性によって翻訳されているというわけである。
寄神は、2007年のインド滞在中に制作された、タペストリー風の刺繍作品《Drawing》(画像k, l)を出展していた。この作品は、インド的世界観からインスピレーションを得たものであるらしい。寄神の制作とは、覗き込んだ一つの世界の中で、自らの手でまた新たな世界の地図を紡ぎだし、それを私たちの日常へと提示するものといえよう。
日常世界の中へ注意深く向けられた眼は、ヴェールの奥に、豊穣な小世界を見出す。植物の微細なフォルムを「芸術の原型」と呼んだブロスフェルトなら、その日常の微細な世界こそが芸術に繋がっていると言うだろう。この展覧会の作家たちもまた、二つが隔たったものではなく、しっかりと繋がっていることを知っている。
日常と芸術の境界領域、その世界を眺めるだけでは飽き足らず、そこへ手を延ばしてみる。その種を手に入れ、自分の世界に持ち帰って保管する。撒いてみる。水をやったり肥料をやったり、手入れしてやる。やがて芽が出る。……おそらくは、小世界と「遊ぶ」そうした手が、ルーティンとしての日常から脱するための扉を開くのだ。
このページの写真は全て、撮影・筆者 |
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