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KARAOKE ACTRESS
(10':05 ) 2007. MAYUMI KIMURA EXHIBITION EDITIONS
*画像をクリックすると作品をご覧いただけます。 |
展覧会は誰のためのものか
TEXT 藤田千彩
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PLAYBACK - Overture - TIME
LABYRINTH (2':50 ) 2008. MAYUMI KIMURA EXHIBITION EDITIONS
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PLAYBACK - BLUE BIRD STREET
(9':02 ) 2008. MAYUMI KIMURA EXHIBITION EDITIONS
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The Map for your Sentimental
Journey - Stage 2: PARIS I (6':56 ) 2008. MAYUMI KIMURA
EXHIBITION EDITIONS
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The Map for your Sentimental
Journey - Stage 3: LONDON (3':55 ) 2008. MAYUMI KIMURA
EXHIBITION EDITIONS
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ACT 8 (2':24 ) 2008. MAYUMI
KIMURA EXHIBITION EDITIONS
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なぜ展覧会があるのだろう。
作家は「自分の作品を見せたい」からであり、観客は「作品を見たい」からである。
この需要と供給の関係性は、別に美術界だけではなく、どんなことでも通用する。
ある朝私は、
大阪府立現代美術センター「第18回芸術家交流事業ART-EX」でベルギーに派遣されていた木村真由美という作家から一通のメールを受け取った。
http://www.digitalartsgallery.co.uk/KIMURA.Exhibition.htmlに、自分の作品が載っている、という内容のものだった。
まずサイトを見て欲しい。
このサイトにある画像をクリックすると、次の画面に移り、映像作品が流れてはじめる。
《PLAYBACK》と名付けられた2作品は、共通した切なさがある。
映し出される、私の知らない世界のどこか。
日本人ではない人による、たどたどしい日本語におかしさを感じる。
重ねられた映像は、美しく、はかなさをおぼえる。
《KARAOKE ACTRESS》という作品は、さまざまな映画をつなぎあわせている。
ときどき合成されたポートレイトがはさみこまれ、映画のセリフに口パクで合わせたりしている。
言葉を聞くあるいは字幕を読むことと、目に入ってくる映像のダブルパンチで、私は想像することをやめる。
言葉に気をとられ、言われるがまま、物語を受け入れるしかない。
どちらかというと美術作品より映画を見ている気持ちになる。
映像作品というのは、5分とか10分とか時間の制限があって、ニガテな人も多い。
物語性があるとその時間はあまり感じないとか、圧倒されるなにかがあれば見てしまうとか、しかし気も集中して見なくてはならない大変さは伴う。
ウェブでの作品公開は、たとえばYouTubeで
田中功起もしている。
インスタレーションも込みで作品にしていた田中の場合、映像だけ見せることはどういう意味を成すのだろう?
そして観客である私たちは、わざわざ美術館に足を運ばなくても、パソコンで作品を楽しむことが出来るのだ、と言える。
木村の作品も同じことが言える。
展覧会をわざわざ開かなくてもインターネットで作品を見せることができる、こんな需要と供給の関係は便利きわまりない。
しかし問題はここからだ。
改めて木村から来たメールを読んでみよう。
そして改めて
サイトを見る。
展覧会が開かれなくなった作家の、静かな義憤を想像しながら映像を見る。
《PLAYBACK Overture-TIME LABYRINTH》にある「Here is not the place
to look for. If you are lucky, you will be here while you
are wandering around.」
(声/ここは探せば探すほどどこかに行ってしまいます。運が良ければ迷っているうちにたどり着けます」や、
《KARAOKE ACTRESS》の最後のセリフ「I must go on」
(藤田訳/私は先へ進まなければいけない)が、
とても暗示的で胸がつまってしまう。
政治的な問題については、私以上に多くの人たちが憤りを感じていることだろう。
こぶしをにぎりしめながらも、大阪府民ではないし、私は美術についての怒りだけにとどめたい。
私たち観客は、どうして展覧会場で作品を見ることができないのか。
大きなプロジェクターで見たらどう感じるだろう。
私がいま見ているパソコンより大きなモニターで見たら何を思うだろう。
サイトで作品を見ることのできる自由さと不自由さ。
逆に言えば、作家にとって展覧会をなぜひらくのか。
展覧会場とはなにか、果たしてハコやプロジェクターは必要だったのか。
木村が絵画や彫刻を制作する作家だとしたら、どのように私たちに見せたのだろう。
会場によって、もっと言えば会場の有無によって、作品は形態を変えなくてはならないのか。
映像だからインターネットで見せられるが、本当はインスタレーションがあったり、会場があるからこそ意味が成したのではないか。
不合理で突発的な「事件」の大きさは計り知れないが、改めて考えさせられる課題は大きい。
そして安易な手段(こうしたウェブ上でのギャラリーや作家ブログ)で作品鑑賞をするすべての美術関係者に、大きな問いかけをしている問題だということにも気付かされた。