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《金具》
2007年 金具、ボルト、ナット
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《handle》
2007年 パレットナイフの柄
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《fragment
#5》
2007年 テラコッタ
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止まっている空間
動いていく時間
TEXT 藤田千彩
武蔵野美術大学の民俗資料室は、以前私が書いた水野亮の展覧会の画像を見れば分かるように、「民具」が置かれた場所である。
「民具」とは、土地に伝わる農耕具や衣装など、生活に密着した道具のことで、武蔵野美術大学では、資料という位置づけでかなり膨大なコレクションをしている。
過去に民俗資料室での展示を見たときは、作家が作り出した作品とこれらのコレクションとが、なんらかのコラボレーションをしていた。
民具という過去で止まった時間のモノたちと、作品という現在進行形で作られているモノのコラボレーションが、時間を超えて、同じ日本という風土で生み出されたモノだと認識するのだ。
しかし冨井大裕の作品は、民俗資料室に併設されたギャラリーで、ふつうに作品を展示していた。
別に民具といっしょに展示するルールではないらしいが、コラボレーションしないで、なんで民俗資料室でやるんだろう?という疑問を抱きながら、私は展示を見る。
受付台に作品タイトルなどキャプションが書いてある紙が置いてあるが、作品の近くにはなんら手がかりはない。
こういう金具は、よく見たことがある。
垂直に立てられ、止められた二つの金具。
ただこうして置かれると、「金具、だよね?」と確認したくなる。
タイトルもずばり《金具》だったので、安心する。
しかし実際どうやって使われているのか、ということが分からなくて、不安を覚えてしまう。
《handle》は、ナイフの柄だと気づいた。
柄だけだと、刃の行方が気になる。
もしかして折れた、もしかして取れた、もしかして殺人、もしかして・・・。
刃を失うまでの過程を妄想してしまう、かなり余計な妄想までも。
おまけに新品じゃない柄に、これまできっとあったはずの苦労を上乗せして妄想してしまう。
自分の人生と照らし合わせながら、あたかも自分が使ってきたかのように、いろいろなことを思い巡らす。
一方、これは一体なんだろう?というものもある。
アルミホイルをねじって棒状にした作品。
最初に見たとき、銀色の鈍い光を反射する物体に、ひとめぼれをした。
しかしだんだんと「この素材はなんだ?」という疑問と、「重そうに感じないこの希薄さはなんだろう」という不審感を持ち合わせて見るようになった。
《fragment #5》もなんだろう?と思う作品のひとつ。
サイズは手のひらサイズで、立体なのであらゆる角度から眺めて見るが、今まで見たことがあるモノを思い出しても当てはまるモノがない。
なんなのこれ、だんだん気分が悪くなる。
冨井はプレスリリースの中で以下のようなテキストを残している。
「同じ要素からでも、違う状況で見れば、ものは違って見える。」
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